優れた歌ばかりとは限らない!?『百人一首』のミステリー

優れた歌ばかりとは限らない!?『百人一首』のミステリー
優れた歌ばかりとは限らない!?『百人一首』のミステリー


5月27日は百人一首の日。漫画『ちはやふる』の影響で一般にも広く認知され、「教えて!goo」の「百人一首は好きですか?」という問いにも、「日本語の美しさが残っていると思います」(yuyuyunnさん)という回答がある。しかしながら、百人一首は必ずしも優れた歌ばかりではないことをご存じだろうか?

■代表的歌人の作品でもなければ、秀歌でもない!?

一般的に百人一首は、『小倉百人一首』のことを指す。小倉百人一首は鎌倉時代初期の歌人・藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)が編纂した秀歌撰。百人一首に載っている歌は、すべて勅撰和歌集が出典となっている。

「勅撰和歌集とは天皇や上皇の命によって編纂された公的な歌集のことで、『古今和歌集』がはじまりです。実は百人一首には名前が載っている歌も、元をたどれば勅撰和歌集には『読人知らず』と書かれている歌が何首か含まれています」(津久井さん)

と教えてくれたのは、全日本かるた協会の津久井さん。「読人知らず」、つまり誰が詠んだのかは全く分からないとのこと。例えば、第一番「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」の作者とされるのは天智天皇だが、勅撰和歌集には天智天皇の名前がある。しかしながら、その前の『万葉集』をたどると、そこには同じ歌が「読人知らず」とされており、いつの間にか天智天皇の歌になってしまったようだ。

「日本最古の和歌集『万葉集』が編まれた時代には、地方の読人知らずの歌が多く載っていますが、編纂過程のいろんな段階で、いろんな人の歌が入ってきたと言われています。また藤原公任(きんとう)による、平安時代に優れた36人の歌を集めた『三十六人撰』や、定家の父・藤原俊成(としなり/しゅんぜい)による『俊成三十六人歌合』も、古今和歌集で読人知らずの歌に猿丸太夫という歌人を当てています。定家もこの経緯を十分承知の上で踏襲し、和歌集を編纂する過程で勅撰和歌集の『読人知らず』の歌に名前を当てたとされています」(津久井さん)

あくまで定家の好みで編纂されたと推察される小倉百人一首。秀歌を集めたことになっているが、客観的な評価としてすべての歌が優れた歌がどうかは疑問符が付くようだ。

■広く認知されるようになったのは終戦後

百人一首は室町時代になってから伝わったといわれるが、定家が選者であることが分かったのはずっと後なのだという。

「定家が百人一首の選者であるということが分かったのは、実は終戦後です。国文学者の有吉保先生が学生時代に宮内庁書陵部蔵本から『百人秀歌』という歌集を発見し、その奥書に黄門(※藤原定家のこと)撰であったことが書かれていました。江戸時代などにも、もちろんそういう説はあったのですが、はっきりとは分からなかったのです」(津久井さん)

百人秀歌と百人一首には、ほとんど同じ歌が載っている。百人秀歌の発見により、百人一首も定家が選者で決まりだろうということになったのだそうだ(ただし諸説あり)。

「また、百人一首には恋の歌が多いのですが、戦争ムード真っ只中の明治時代には恋の歌なんて嫌煙され、むしろ万葉集の方が評価されていました。下火になっていた平安和歌が復活したのは、終戦後なんです」(津久井さん)

そんななかで密かに広まっていたのが、漫画『ちはやふる』の題材にもなった競技かるた。競技かるたは、読み手が読み上げる百人一首の歌の上の句を聞き、出来るだけ早く下の句の書かれた札を取りに行く競技だ。

「競技かるたは明治時代、歌人ではない、庶民たちにより広められたものです。素人なので詠み方が違っていたり、地方によってルールが違っていたりしたのですが、明治37年にルールが確立されました。文句を言われながらも延々と伝えられてきましたが、戦争中という時代背景のなか続けられてきたということは、もっと評価されてもよいと私は思います」(津久井さん)

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