ギョーザ、ジャズ、カクテル、自転車と、アピール材料が多い宇都宮だが、百人一首も前面に押し出している。百人一首の市民大会は20年以上続き、全国競技かるた宇都宮大会も平成26年から開かれている。「小倉百人一首」の成立に関わった一人が、元宇都宮城主で、法名「蓮生(れんしょう)」を名乗っていた宇都宮頼綱だからだ。
宇都宮氏は頼綱ら優れた歌人を輩出。宇都宮歌壇が京都、鎌倉に並ぶ日本三大歌壇といわれるようになったのは頼綱の功績だ。
ただ、現代まで名を残す功績は政治的失脚と表裏一体でもある。
頼綱本人は鎌倉幕府初代執権・北条時政の娘を妻にしていた。鎌倉時代初期、有力御家人が北条氏との暗闘で次々と滅ぼされるが、牧の方事件(1205年)では、義父・時政が失脚した。時政は後妻、牧の方と共謀、将軍・源実朝暗殺を企てたが、完全に失敗し、自分の子、2代執権・北条義時や政子によって追放された。
頼綱は事件に連座、謀反の疑いをかけられた。下野守護・小山朝政(ともまさ)に頼綱追討が命令されるが、朝政は「まずは、頼綱謀反の真偽を確かめるべきだ」と取りなした。
頼綱は幕府に反抗する意思がないことを示すため出家。頼綱は、朝政の父、小山政光の元に預けられていた時期があり、政光は養父、朝政ら小山三兄弟とは義理の兄弟の関係だった。小山一族の支援で命拾い。後に許され、東国に戻っているようだ。
出家後は浄土宗開祖・法然(ほうねん)や、その弟子の証空(しょうくう)に師事。比叡山延暦寺の僧兵が法然の廟所を襲った嘉禄(かろく)の法難(1227年)では、師である法然の遺骸を守った。