宇都宮泰綱 宇都宮歌壇のネットワーク力

「新式和歌集」(宇都宮二荒山神社蔵、県立博物館提供)
「新式和歌集」(宇都宮二荒山神社蔵、県立博物館提供)


宇都宮泰綱(うつのみや・やすつな)1202~60年。宇都宮頼綱(蓮生(れんしょう))の三男、宇都宮氏6代当主。評定衆、美濃国守護など幕府要職を歴任。兄弟は、頼綱長男の宇都宮時綱、同次男の横田頼業、同四男の多功宗朝。



父、頼綱は元久2(1205)年、謀反の嫌疑を受けて家臣約60人と共に出家していた。度重なる宇都宮氏存亡の危機を乗り越えてきた泰綱の政治手腕は高い。

一方、泰綱は宇都宮歌壇を発展させた文化の面での功績もある。頼綱と和歌の第一人者、藤原定家との親交は「小倉百人一首」成立につながるが、県立博物館(宇都宮市睦町)の学芸員、山本享史さんは「定家は泰綱にも目をかけ、古今和歌集の1千首を自ら書き写して贈っている」と話す。また、定家の日記「明月記」によると、連歌会の後、定家は「実(まこと)に骨を得ている」と泰綱の歌を評価した。晩年の定家がこのように、人を褒めることは珍しかった。山本さんは「宇都宮歌壇は京都、鎌倉に負けない幅広いネットワークが確認できる」と指摘する。京の貴族、将軍・源実朝、北条氏と、宇都宮氏の交際範囲を投影し、文化活動の幅広さが分かる。

宇都宮歌壇の最盛期を彩るのが「新式和歌集」。頼綱59首、泰綱42首、景綱48首と宇都宮一族を中心に186人の875首が並ぶ。正元元(1259)年ごろ成立。定家の孫で母が宇都宮氏出身の二条為氏が宇都宮に来て選者となったと伝えられているが、為氏が宇都宮に来た確証はない。泰綱、景綱親子ら宇都宮一族が深く関わっているはずだ。「新○(しんまる)和歌集」と紹介されることが多い。宇都宮二荒山神社(宇都宮市馬場通り)所蔵の同書冒頭、式の字を脱落させて「○」を当てたことが示されている。

16日~10月29日の県立博物館特別企画展「中世宇都宮氏」では…