小倉百人一首成立は動乱の時代!時代の主役たちを支えた女房の和歌3選

激動の時代に成立した百人一首…
激動の時代に成立した百人一首…


お正月のかるた遊びとして知られる「小倉百人一首」は、天智天皇・持統天皇という2人の天皇の歌で始まり、後鳥羽院・順徳院というこれまた2人の天皇の歌で締めくくられています。

藤原定家によって小倉百人一首が成立した時代は、貴族の権力が衰え、平清盛に代表される武士が力を持つようになってきた動乱期でした。

そんな時代を生きた歴史上の人物を支えた女房たちの歌が、百人一首には多く取り上げられています。今回はその中から、歌人としても有名な3人に注目してみました。

待賢門院堀河

80番「なかゝらむ心もしらす黒髪の 乱てけさは物をこそおもへ

待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)は、妖怪伝説で知られる崇徳院の母で、崇徳院の父・鳥羽天皇の中宮である璋子(待賢門院)に仕えた女官です。2012年の大河ドラマ『平清盛』に、りょう演じる「堀河局」という名の女官として登場していたのを覚えている方もいるのではないでしょうか?

(画像出典:Wikipedia)

「堀河」というのは苗字ではなく、祖父の兄が堀河左大臣であったことから「待賢門院にお仕えしている堀河左大臣ゆかりの女官」という意味で呼ばれていた女房名です。神祇伯・源顕仲の娘で、待賢門院に仕える前は白河天皇の皇女で斎院を務めていた令子内親王に「前斎院六条」という女房名で仕えていました。

家集『待賢門院堀河集』には、138首の歌が収められています。

皇嘉門院別当

88番「難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)は、崇徳院の中宮・聖子(皇嘉門院)に仕えた女官です。本名や生没年などは知られていませんが、父は太皇太后宮亮・源俊隆、祖父は大蔵卿・源師隆ということが分かっています。

彼女の主人である中宮聖子は、摂政・藤原忠道の娘で、摂政・藤原兼実の姉でした。
百人一首に取り上げられている別当の歌は、中宮の弟である兼実が右大臣だった時に開催された歌合せで詠まれた歌であることが、出典の『千載和歌集』の詞書から分かります。

画像出典:小倉百人一首殿堂 時雨殿

殷富門院大輔

90番「見せはやなおしまのあまの袖たにも ぬれにそぬれし色はかはらす

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)は、後白河天皇の第一皇女で、百人一首にも取り上げられている式子内親王の姉である亮子内親王(殷富門院)に仕えた女官です。

(画像出典:Wikipediaより『銅板百人一首(1989(明治22)年刊行』)

生没年ははっきりとは分かっていませんが、藤原信成の娘で、大治5(1130)年〜正治2(1200)年頃に生きていた人であることが知られています。

『千載和歌集』『続後撰和歌集』をはじめとする勅撰集に多数歌を取り上げられるなど、優れた歌人として知られ、百人一首の撰者である藤原定家や寂蓮、西行などの著名な歌人とも交流がありました。

彼女と並ぶ女流歌人と呼ばれた小侍従という女官とは、ライバルであり友達でもある関係でした。時には2人で夜通し歌を詠み合ったり、歌人仲間の男性たちを誘って名月の夜に小侍従の家を突撃アポなし訪問するなどの様子が、彼女の家集『殷富門院大輔集』から見られます。

高貴な女性のまわりには優秀な女房が

紫式部や清少納言が活躍した時代から、天皇の后や皇女などの高貴な女性たちの周りには、優れた教養のある女房たちが仕えていました。彼女たちには主人の身の回りの世話をするだけではなく、その教養を活かして…

 

本文の続き、更に他のユニークな記事の閲覧はこちら(japaaan.com)