戦後の惰眠から覚醒し日本文明の「魂」を復興させよう 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司(百人一首の話題)

文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司氏(瀧誠四郎撮影)
文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司氏(瀧誠四郎撮影)


昨年12月19日、ミューザ川崎シンフォニーホールで交声曲「海道東征」が演奏された。アンコールで演奏された「海ゆかば」を聴きながら、戦後七十余年がたって、ついに日本文明の復興が始まったのではないかと思った。

 日本は一国一文明の宿命にあるが、それを国粋的に捉えてはよくないであろうし、日本文明の今後の発展につながる発想でもない。

神武天皇の東征を題材としたこの「海道東征」にしても、西洋の近代詩に大きな影響を受けた北原白秋が、最晩年に日本の『古事記』や『万葉集』の言葉を使って創作した民族の叙事詩に、バッハをはじめとする西洋音楽を深く学んだ信時潔が作曲したものである。決して「日本的な、あまりに日本的な」音楽ではなかった。

西洋に影響を受けたにもかかわらずではなく、西洋に学んだがゆえに、日本文明の近代における代表的な作品となった。これが、明治以降の日本文明の宿命である。

「海道東征」は、日本文明の柱の一つとして聴かれ続けるであろう。昭和15年の「紀元二千六百年」の奉祝曲として作られたこの名曲は、日本文明がはっきり刻印された芸術だからである。

敗戦によって戦後、日本文明は西欧文明、特にアメリカ文明に浸潤されてきたが、近来、日本文明に対する関心あるいは誇りが蘇生しているのは喜ばしいことである。しかしそれが「日本的な、あまりに日本的な」文化への回帰になってはならない。

例えば、『百人一首』のかるたは、家庭で正月の遊びとして使われていた。それにより日本文明の歌による表現が、子供の心に染みこんでいたのである。しかし、この風習が失われつつあることを嘆いて『百人一首』を単に復活させようとしても、真に日本文明の将来に役立つことではない。

≪古典を世界に開かれたものに≫

音楽評論家の吉田秀和氏が、詩人・中原中也の思い出を語っている中に、興味深いものがある。昭和初期の頃と思われるが、中也が吉田氏に好んで歌って聴かせたのは、『百人一首』の中にある紀友則の「ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」であった。これを中也は、チャイコフスキーのピアノ組曲《四季》の中の6月にある「舟歌」にあわせて歌ったという。

「彼は、枕詞(まくらことば)の『ひさかたの』は、レチタティーヴォでやって『光のどけき春の日に』から歌にするのだったが、そこはまた、あのト短調の旋律に申し分なくぴったりあうのだった」と回想している。日本の紀友則の歌を、ロシアのチャイコフスキーの音楽にあわせて歌うというような創意が…

 

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