女性の宮仕えは玉の輿への道!?平安女流歌人たちのシンデレラストーリー

一般的には好ましくないとされていた「宮仕え」。しかし・・・
一般的には好ましくないとされていた「宮仕え」。しかし・・・


宮中に仕えた女房たちの中には、後の日本文学史に残る名作を残した女性が数多くいます。しかしこの時代は、一般的には「高貴な女性が夫以外の男性に顔をさらすなんて、はしたない」とされた時代。例えば、高貴な姫君が父親に死なれて宮仕えに出ることは「転落」「零落」を意味していました。

また清少納言が『枕草子』の中に
「宮仕えする女房に対して『尻軽で良くない』という偏見を持つ男は、本当に憎らしいわよね」

という内容を書いていることから、この時代に多くの男性に顔をさらしながら働く女房は「尻軽で大切に扱うには及ばない」と軽蔑され、貴族の男性から遊ばれて捨てられることも多かったことが分かります。

しかしそんな中、宮仕えをきっかけに高位の男性に見初められ、「平安時代のシンデレラ」となった女性たちもいました。

受領階級の娘から天皇の寵愛を受け、皇子を産んだ「伊勢御息所」

女流歌人としても知られる伊勢は、宇多天皇の中宮・藤原温子に仕えた女房です。『小倉百人一首』の第19番目に

難波潟 みじかき芦の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

という歌が入っているので、ご存知の方もいるのではないでしょうか。

佐竹本三十六歌仙絵巻より/Wikipedia-伊勢(歌人)

彼女の父は伊勢守を勤めた藤原継蔭(つぐかげ)だったため、父の官名から「伊勢」という女房名で呼ばれましたが、後に宇多天皇の寵愛を受け皇子を産んだため「伊勢の御」または「伊勢御息所(みやすどころ/天皇の子を産んだ女官のこと。皇后・中宮の下位)」と呼ばれるようになりました。

残念ながらその皇子は早世してしまいましたが、その後彼女は宇多天皇の別の皇子である敦慶(あつよし)親王と結婚し、娘で後に歌人としても知られるようになる中務(なかつかさ)を産んでいます。

清少納言の主人・皇后定子の母「高階貴子」

清少納言が仕えた皇后定子の母親も、宮仕えによって高位の夫と出会った女性でした。『小倉百人一首』の第54番に

忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな

という歌を採り上げられた儀同三司母こと高階貴子は、「男心などあてにはならない」と娘の将来の自立の道を考えた父の意向もあり、漢詩文の素養などを生かして宮仕えをするようになりました。

Wikipedia-高階貴子より

その知性を認められ、内裏の女官を統率する内侍の役職を務めた彼女は、宮中で後の関白・藤原道隆と出会い北の方(正妻)となりました。『栄華物語』には「多情な道隆が、彼女をすぐさま正妻に迎えた」とあり、その執心ぶがよく分かります。

皇后定子が知性と教養で一条天皇の心を射止め最愛の后となったのも、伊周が20歳にして権大納言とスピード出世を果たしたのも、実家での貴子の教育あればこそでしょう。

清少納言は著書の中で
「結婚前に内侍などの役職に就いて活躍していた女性が妻なら、結婚して家に入ってからもその経験が夫の職務に役立つことがある。それに妻が時々内裏に参内したり、朝廷の使いなどに立つのも、とても鼻の高いことではないかしら?」

と言っています。当時としてはかなり斬新な発想でしょうが、だからこそ当時の女性の読者たちは…

 

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