これまでにも、その中に取り上げられている作者と歌をご紹介してきましたが、100首の中のトップバッターとして登場するのが天智天皇による御製です。
秋の田の かりほの庵の 苫を荒み わが衣手は 露に濡れつつ
(稲の収穫のための秋の田んぼの番をするための粗末な仮小屋にいると、屋根をふく苫の目が粗いため、そこから漏れてくる露で私の着物の衣手がだんだん濡れてくることよ。)
稲の収穫の時期になると、農民たちは夜中に動物がやってきて稲を荒らさないよう、田んぼに仮小屋を建てて泊まり込みで番をしていたのです。
第38代天皇・天智天皇といえば、それまで権力を欲しいままにしていた蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の国家成立を目指す「大化の改新」を行ったとして、歴史の教科書に必ず登場する天皇です。
そこから
「さすがは天智天皇!庶民の暮らしを目の当たりにし、そのつらさを理解する名君だったのだな」
という解釈もできますが、実はこの歌、元は別人の歌だった可能性があるのです。
元の歌は『万葉集』の「詠み人しらず」の歌!?
誰もが天智天皇の歌と信じているこの歌ですが、実は『万葉集』の「巻十」によく似た「詠み人しらず」の歌が採られています。
秋田刈る 仮庵を作り わが居れば 衣手寒く 露ぞ置きにける
歌の意味は前項の天智天皇の歌と大体同じですが、「衣手寒く」などの表現が使われ、歌全体の雰囲気がより素朴でリアルです。この歌が後世へ伝わるうちに、表現が次第に雅なものに変わっていき、作者も天智天皇とされたようです。
百人一首の撰者・藤原定家も、『後撰和歌集 巻6・秋歌中』から天智天皇の歌と信じ、トップバッターに起用したのでした。
親子の天皇の歌で始まり、親子の天皇の歌で終わる百人一首
この歌に続く第2番は、天智天皇の皇女で第42代天皇・持統天皇の歌です。そして最後を飾る第99番・100番の歌も、親子の天皇である後鳥羽院・順徳院の歌となっています。つまり百人一首は、親子の天皇の歌で始まり、親子の天皇の歌で終わるという対比構造になっているのです。
撰者の藤原定家は『小倉百人一首』に、天皇と貴族の全盛期だった天智・持統の両天皇の時代から、権力が武士に取って代わられていく後鳥羽・順徳両天皇の時代までの「歴史」も盛り込んだのでした。
そこには…
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